白村江の戦い

660年唐・新羅の連合軍との戦いによって百済は滅亡したが、百済の遺臣鬼室副信(きひつふくしん)は百済再興を目ざして挙兵するとともに使者を日本に派遣して救援を求めた。
日本朝廷はただちにそれに応じ661年斉明天皇みずから西征し筑紫に到着したが同年7月天皇が崩御したため渡海は延期された。
翌年正月阿曇比邏夫連(あずみひらぶむらに)らは船師170艘を率いて渡海し鬼室副信らを救援した。
さらに663年27000人の増援軍が派遣された。これに対して新羅は唐に増援軍を請求し、7000人が派遣された。
大和の軍船が、百済の遺臣らの籠る周留城をめざして、錦江下流の白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が、時こそ来れと待ち構えていた。
8月27日、両軍の戦端はひらかれ翌28日に勝敗は決した。
大和の水軍は、待ちうけた唐と新羅の連合軍に挟み撃たれ、朝鮮の三国史記の記述によれば、船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まったという惨状であった。
敗戦の悲報は翌月には早くも那の津の本営にもたらされた。
半信半疑で、誤報であれかしと一縷の望みをつなぐ人々の前に、やがて敗残兵と亡命の百済人たちが、那の津の海に散り散りになって引き上げてきた。

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