学校院跡

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8世紀始め政治体制が整うにつれて官吏の養成が急務となり、奈良や太宰府に大学、地方に国学を置いた。
全盛期の学生数百人。(九州一円の国司・郡司の子弟)
博士、音博士、明法博士、学授などとよばれる一流の教授人が、厳しく鍛え上げた。
音は音律のこと、明法は法律で、このほか算道、文章、書道など、儒学を基本にした堅い教育内容だった。
吉備真備(きびのまきび)が754年大宰大弐として赴任、以後10年間学校院の設備の充実に力を注いだ。
当時、三史(史記・漢書・後漢書)がなく、769年朝廷に奏上して、中国の正史各1部が下賜されたという。
平安時代には体制が整い、876年には先聖(孔子)、先師(顔回)、びんしけんの三聖人を祀る聖堂をつくり、せきてんの礼が行われていた。
しかし平安末期には閉鎖され、その跡も明確でない。
看板より(1997.11作成)
所在地  太宰府市観世音寺4丁目208番地4ほか
指定名称 国指定史跡 大宰府学校院跡
指定日  昭和45年9月21日

学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの地区は、小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。
学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。
古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在に県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六区にには博士はおかれず、学生は大宰府で修学した。
学生は所定年内に必要な科目を修得した後に、試験に合格すれば役人として採用される。
天応元年(781)には約200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても機能していたことを知ることができる。
蓮華唐花文塼
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