水城と元寇(文永の役)

福岡市の東公園に日蓮上人の大きな銅像がある。
日蓮上人は「立正安国論」で蒙古襲来を予測していた。
1268年高麗人藩阜(はんぷ)が蒙古の使者として大宰府にやってきた。
これから蒙古襲来までモンゴルの使者は手をかえ人をかえ来日した。

この時の執権は8代目北条時宗18歳で、再三の蒙古の使者に対して返答を与えなかった。
九州防衛のため九州に所領を持つ御家人、守護、地頭(関東武士)を鎮西につかせ、博多湾一帯を警備させた。
小弐氏と大友氏が異国警備番役の総監督をつとめた。鎮西奉行の守護所はこの時は櫛田神社ふきんだったらしい。
1273年趙良弼(ちょうりょうひつ)が再度、使者としてやってきた。
幕府はまた来た時は斬首すると威嚇して追い返した。

1274年10月900艘の船に分乗した元軍30000の軍勢が対馬、壱岐、鷹島を攻め、今津湾から大宰府攻略にやってきた。
対馬、壱岐での蒙古の残虐さは凄まじく、「ムゴイ」という言葉はこの時できたということである。
開戦当初の九州の軍勢は5000から10000であった。
小弐経資の弟、景資が大将となったが統率権はなくばらばらに闘った。
今津湾で簡単に日本軍を討った後、元軍は博多湾に進入した。日本軍は百道原まで退却した。
元軍は室見河口から上陸し、日本軍は祖原を本陣にして迎え討った。
八幡愚童記より
てっぽうとて鉄丸に火を包みて激しく飛ばす。
あたりて破るる時は四方に火炎ほとばしりて烟を以ってくらます。
またその音甚だ高ければ、心を迷わし肝を消し、目くらみ、耳ふさがりて東西を知らず...。
日本軍の消耗は激しく、一旦後退して陣営を立て直すことになり、全軍博多を放棄して水城に立てこもることになった。
周辺の人たちがかき集められ、昼夜兼行で壕を掘り直し、堤を修復したと記憶されている。
当初造られた時は異国来襲時、博多を水浸しにする予定であった。
610年後、博多は水浸しでなく、火まみれになってしまったのである。
10月20日の夜半から翌朝にかけて神風が吹いた。
元軍の大宰府への総攻撃を覚悟していたが、海を見ると博多湾を埋めつくしていた900艘の軍船がいない。
神風と人々が信じたのは当然のことだったろう。

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